内田先生の文章から。
本題は韓国で日本語を教える成惠卿氏との会話の話。半島の南北統一、対中米の東アジア協働について。
でも、表題の件が面白いのでピックアップします。

内田樹の研究室リンクより

成惠卿さんとお話しする
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(前略)
韓国の若い諸君の英語熱はすごいそうである。
もちろん国策としての英語普及政策がある。
日本でもそうだが、大学では「英語で行う授業」の時数によって助成金配分が変わる。だから、どの大学でも必死で「英語で行う授業」数を増やしている。
大義名分は「留学生にも受けられる授業」だが、実際には「英語ができる学生」と「できない学生」を差別化するために開講されている。
これは私の個人的意見だが、韓国社会は「階層化」については心理的な抵抗がない。
むしろ、「わかりやすい指標」に基づく階層化を好む傾向にあるように思われる。
年収と学歴への「こだわり」において、韓国民はたぶん世界でも最高水準にある。
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その点では、アメリカ発のグローバリズムと親和性が高い。

日本はそれに比べると階層化圧に対するつよい心理的抵抗が存在する。
平準化圧といってもいい。
「ぜんぶならして平らにしよう」という趨勢が、日本国民のDNAのうちには存在する。
こんなDNAを持っているのは、たぶん世界で日本人だけである。
それなりの人類学的必然性があって開発された遺伝形質だろうから、頭ごなしに「だから日本人はダメなんだ」と決めつけないほうがいいと私は思う。

前にも書いたが、NSP(National Story Project)の日本版を試みて、いちばん驚いたのは、寄せられた数百のエッセイの文体に「階層性・地域性」がまったく反映していなかったことである。
ポール・オースターのNSPはたしかに通読すると、そこからは「アメリカの声」が聴き取れる。
アラスカからテキサスまで、Redwood forest からGulf stream water までカウボーイからウォール街のストックブローカーまで、それぞれの集団固有の語法で語られた物語が聴き取れる。
語彙が違い、価値観が違い、美意識が違い、総じて、そこから立ち上ってくる空気の匂いが違う。
でも、日本版NSPを読んでも、そういう意味での「日本の多様性」はまったく感じられない。
みんな同じ言葉を使って、自分の経験を語っている。
語彙が同じ、リズムが同じ、比喩が同じ、改行のしかたが同じ、ユーモアのセンスも同じ・・・
これはある意味「すごいこと」である。
国民の使用する言語がこれほど斉一的である国は世界に他には存在しないであろう。

そもそも欧米の場合は、識字率が低いという前提がある。
文字がうまく読めない書けないという人たちが、多いところでは国民の20%に及ぶ。
それに加えて移民集団・社会階層ごとに使用言語が違う。
アメリカの場合、ヒスパニックはスペイン語を主に使う。ロサンゼルスなど都市の黒人の間にはエボニクスという固有の言語が存在するが、これは標準的な英語とは語彙も文法も音韻も違う。ヨーロッパでも上流階級とワーキングクラスでは発音も語彙も違う。
だからこそ、人が話すのを聴くと「同じ国の中に多様な人々が共生している」ことが実感されるのであるが、日本の場合は、それが感じられないのである。
みんなおんなじだから。

だが、繰り返し言うがこれは「すごいこと」である。
これを「個性がない」とか「画一化されている」と否定的にのみとらえることに私は反対である。
だって、「個性がない言語環境」を作り上げた社会が世界に日本しかないとしたら、それって「きわめて個性的な社会」だということだからである。

特殊性というのは(おおかたの生物種においてそうであるように)個体ではなく集団単位に発現するから意味がある。
「個性なき社会」という「きわだって個性的な社会」を形成した集団がいったい何を考えてそんなことをしたのか、これは腰を据えて分析する甲斐のある論件だと私は思う。

(後略)
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狒狒