「朝まで生テレビ」で今まで放送されてきた「原発」特集がyoutubeにアップされています。
1988年2月に放送された第1弾を見てみると、本当に情報が一方通行であり、マスコミ・社会科学者からの思考を停止させる発信のオンパレードに逆に考えさせられてしまいました。
現在につながる気付きがあるので紹介します。

以下引用
BLOG:hyokoya
『朝まで生テレビ!「原発」第1弾 1988年 2』
リンク
<映像もこちらより>
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このVTRを見て、日本が23年前の当時から、どうして原発推進を止めることができなかったとのかということを考え、3つの問題を感じた。

■日本人の科学的思考力(≒論理的思考力)の欠如
■日本国の民主主義の未成熟
■日本は、世界一の技術立国で、日本は特殊だという島国根性
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この3点であり、それは23年前も未熟で、現在は更にだめになっているようにさえ思う。

■日本人の科学的思考力(≒論理的思考力)の欠如
議論において、栗本慎一郎、西部 邁、舛添要一といった社会科学出身の推進派の論客は、文明論などを持ち出す。進歩というのは、常に危険と隣り合わせだ。皆、豊かな生活を求める。豊かな生活を享受しながら、一方で、感情的に反原発を叫ぶと。例として、飛行機や車を出す。飛行機や車は危険だと分かっていても、そのリスクを許容する。私は、文系の学生だったので、文明論とかの話や、経済発展、進歩のために許容されるリスクがあるという話を出されると、当時もしこのビデオを見たら、そちら側の意見に賛同したような気がする。
しかし、今冷静になった考えた時に、彼ら、社会科学系の論客に欠けているものを1つ感じる。それは、「科学的思考力」なのだ。彼は、飛行機、車と原発を一般化して論じている。しかし、飛行機、車と原発は、違うものだ。どのような構造か?、どのように事故が起こるのか?、どんな危険性があるのか?、事故が起きた時の影響は?違う技術なのに、文明の進化にはリスクがつきものであると、一般化している彼らは、そもそも原子力の仕組みについて、興味もないし、理解もしていないだろうなと、思われる。異なる技術を文明論という社会科学的概念に一般化して、自身は原発の技術に興味がないというのは、「科学」の軽視だと思う。一方で、暉峻淑子(てるおか・いつこ)という反原発側の論客にも同じことを思う。

原発を止めるためには、原発の科学的な理解をした上での議論でなければいけない。
それなしで、生命だの、人権だのをあげただけでは、結局、権力側である推進派に丸め込まれてしまう。

■日本国の民主主義の未成熟
もう1つ感じるのは、日本の民主主義の未成熟だ。
中島哲演という福井の坊さんが、ろくに討論会が開かれないまま、建設された。と怒っていた。
金をバラまいて、原発を建てるという方式は、日本ぐらいらしい。
例えば、イギリスでは何百回も討論会がなされた上で、住民の同意を得た上で、建設がされるそうだ。
都会の人は、原発はどこか人ごとのはず。建設のプロセスはせめて現地の人に対して、民主的な手続きでなされるべきだ。
現地では非民主的な手続きで、建設が進められる。都会の人がそれを知る機会は、テレビぐらいしかない。
そのテレビが報道を規制しだしたら、現地の人の小さな声は、日本には届かない。

そのような社会問題を、声を大にして報道しなくなったマスメディアの責任は、大きいし、同時に、そのような真面目な問題に興味を示さなくなった、日本人の知的レベルの低下にも大きな問題があると思う。

■日本は、世界一の技術立国で、日本は特殊だという島国根性
VTRの最初の方を見ていると、アメリカのスリーマイルの事故、ソ連のチェルノブイリの事故があっても、日本は安全であるという根拠は、「日本の技術、オペレーションは優秀だ」という論理である。ちょうど、バブルの頃だから、それは特に説得力をもったのかもしれない。
その日本が、福島原発の事故で、フランスの技術に頼り、アメリカのロボットに頼る姿を見て、非常にショックを受けた。(日本はロボット技術は世界1のはずだったのだが)。
高速鉄道では、フランスは550kmを出すTGVがある。日本の主要家電メーカーは、サムスンの足下にも及ばなくなり、apple製品が世の中を席巻している現在、日本の技術的優位性とは、圧倒的な優位性ではなく、業界、業界内のある分野における優位であって、そんなことを言えば、どの国だってそういう優位はあるのだから、日本の技術的な優位性など、存在しないのではないか?島国の人間が、勝手に自画自賛しているだけではないか?
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<以上引用終わり>




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