現実世界を対象化した認識・観念は、本能(体)・共認機能(心)と繋がっており、外圧に適応する=人類が生きていく上で必要不可欠な武器である。

一方で、受験勉強に代表される机上だけで得られる知識を詰め込むほど、現実を対象化する能力を獲得する機会を逸してしまう。

その結果として、他人との関係を捨象し、現実の圧力と切り離された世界へと埋没するようになる。

受験だけを目的とした教育の弊害は、「秀才」のみならず、我々全てに少なからず影響を及ぼしている。

リンクより引用
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◆松蔭のような秀才はいかに創られるか

 先週、サイードを批判した記事で、サイードや大江健三郎は秀才の典型だと述べた。そのときに、秀才とは「対象の反映なくして反映できる者」であると、紹介しておいた。対象の反映なしとは、実体に関わること抜きで、言葉だけで考えたり、覚えたりできるということである。
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例えば、みなさんは小学生のときに「鶴亀算」をやっただろうが、あれは、鶴や亀を見たことも触ったこともないのに、計算できちゃうでしょう? 鶴や亀は写真や動物園で見たことはあっても、足の数を目の前で数えたわけでもないのに、いうなれば屁理屈こねて計算できる。あれが対象(鶴や亀)を反映せずに、空想で反映できちゃった、という例である。

<中略>

本来人間は、対象を実体とからめてこそ覚えられる。例えば稲の栽培方法とか、家畜の飼い方とかがそうであった。ところが秀才は実体抜きで言葉だけで覚えることが、技化できちゃったのである。

 それは外界の対象と関わることなしに、受験勉強に集中したからであった。本に書いてあることを、効率よく記憶出来るように励んだ結果の量質転化。

 なかには小学校にあがる前の幼稚園でそういう技を習得する。あるいは小学生、中学生で突然勉強に目覚める子どもがそうなのだ。幼稚園でいえば、ウサギさんとウサギさんがいっしょになって2つになる、なんてことが実物のウサギを見たこともないのに、わかって(?)しまう。そういう学習をさせた結果、秀才的頭になる。

 秀才になると、例えばブータンという国がどこにあって、人口がいくらで、特産品は何か、年間降水量はどうか、などということが覚えられる。見たことも、住んだこともないブータンが分かっているという恐ろしい(?)事態。これを称して実体抜きの知識が反映している、という。

 人間は成長して、実体抜きの知識を覚えなければ生活していけない、そうした能力も必要であるが、秀才というのはそればっかりが得意になって、生の反映を避け、苦手とするようになるからまずいのだ。

<中略>

秀才は実体抜きの反映が記憶できる者であるが、そうなるように技化するのは大変である。ふつうの生命体としては異常だからである。トリでもサカナでも、みんな実体を反映しているのであって、それにみあった体になり、認識になる。サカナが見たこともない世界を空想することはない。

 幼児のころから、英語を習わせるのも、実体抜きで覚えさせるのだから、秀才をつくりたければ有効であろう。
 
 秀才になりそこねた子どもは、ガキのころから野山を駆け巡り、ムシだの魚だのを追って日がな遊んでいるから、もうまともに実体を反映することが技化してくる。そういう子は鈍才となるから、実体の反映が強い。そうなるように子どものときから創ってきたからである。そういう子どもは受験勉強が苦手になる。

実体のない反映は記憶することができなくなる。鈍才は、実体抜きの反映を記憶するのがむずかしいので、数学なんかは大の不得意科目になる。
 秀才が思春期になり、青春期になると、実体としての人間が反映してこない。親友ができない。冷めた友人関係になる。あげくは恋人をどう扱っていいかわからない。「情熱って何ですか?」なんて人に真顔で尋ねることにもなる。

 あらまほしきは、中学2~3年までは受験はないほうがよい。ここまでは生の反映をする時期だからなのと、そこまでにかなりの感情が豊かになる脳細胞を育てなければいけないからである。
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(引用以上)




大島健男