子供達の遊びには体と心と頭があるがまま、三位一体で機能する姿がある。高度成長期以降の子供の遊びは集団性と外遊び(自然)が失われ、その三位一体が分断され欠落してしまった。体と心と頭が統合される感覚の原体験を、子供達は集団遊びを介して獲得してきたのではなかろうか。それでは辻妻が合わないではないかという感覚は、三位一体感からの違和感として生じてくる。
最近、頭でっかちで統合感が欠落した大人の仕事ぶりが気になるが、これでは全く成果があがらない。政界から官界、企業社会に至るまで、潜在思念の不整合に原因はあると思うが、照準が定まらず、判断がづれっぱなし、観念論で道理を外すなどと仕事にならない大人が急増している。最近のへんな判断を下す裁判官や、法務大臣夫婦などもしかり、どれほど指導しても社会の圧力が強まっても、その重症な大人には転換のスイッチが容易には入らないと思われる。
彼等に共通するのは、幼少期の仲間遊びや外遊びの体験や、森羅万象の自然体験が貧弱であることと、思春期には受験勉強に没頭させられて、仲間を捨象した自分課題に収束してきたことにあるのではないか。

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・かくれんぼや鬼ごっこも、幼少の子供には危機感や恐怖感や仲間に対する依存や達成感が、頭と心と体を貫いてリアルに息づいていた。高波に洗われる岩礁に海から這い上がるときの、木の枝を削った木刀を下げて二手に分かれた捕りもの戦の遊びの、その状況判断や恐怖心は忘れられない。高波の周期を読んだり、物陰に隠れて相手を窺うときのスリリングな心の昂りは今でも心の奥に息づく。それは大人となってリスクの大きな仕事に立ち向かったときの心のありようとほとんど変わらない。
・集団にとってリスクと実現可能性がともに大きな対象に立ち向かう場に臨む心象は、子供も大人も変わりはないと思う。
そのように伝統的な子供達の遊びは、大人になって社会スケールの闘争課題に挑むときの心と体の構えを育むものの様に思える。やんちゃな遊びほど、逞しい男を育て上げる。